合法な海賊? 私掠船(privateer)

  私掠(しりゃく)船(privateer)とは、戦争状態にある国の政府からその敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う許可、私掠(しりゃく)免許を得た個人の船のことです。この慣習は16世紀の英国にはじまり、18世紀の英仏戦争中にはとてもに多くの私掠船(privateer)が活動していたそうです。私掠船(privateer)を運用するメリットは、海軍の常備兵力を削れることにあり、そもそも海外進出でスペインやポルトガルに後れをとった英国の苦肉の策でもあったようです。傭兵に類似していますが、統制がきかず、同盟国や母国籍の船まで襲う者もいたそうです。
私掠船(privateer)の航海で得られた利益は、国庫・出資者・船長以下乗組員に所定の比率で分配されたそうで、国家や出資者にとっては私掠船(privateer)はおおむね儲かる事業だったようです。エリザベス1世(Elizabeth I)がフランシス・ドレーク(Francis Drake)に私掠免許を与え投資した際の利益率は6000%にのぼったという説もあります。
  フランシス・ドレーク(Francis Drake)の生い立ちは、「ゴールデン・ハインド(Golden Hind)」でも一部紹介しましたが、1570年以降、西インド諸島のスペイン船や町を襲う海賊活動を開始しました。もともとは海賊だったのです。
  1577年11月、排水量約300tのガレオン船ゴールデン・ハインド(Golden Hind)号を旗艦とする5隻の艦隊でプリマス港(Plymouth Harbour)を出航しました。大西洋からマゼラン海峡を経て太平洋に進出し、チリやペルー沿岸のスペイン植民地や船を襲って、多大な財宝を奪ったようです。その中にはスペイン王の財宝を満載したカカフエゴ号などが含まれていたそうです。カカフエゴ号には銀26t、金80ポンド、貨幣と装飾品13箱など合計20万ポンド相当が積載されていたそうです。
  その後、太平洋を横断してモルッカ諸島に到着、さらにインド洋から喜望峰を回って、イギリスへと帰国しました。この途中、1578年にホーン岬とドレーク海峡を発見しています。1580年9月に、生き残ったゴールデン・ハインド(Golden Hind)のみがプリマス港に帰港し、イギリス女王エリザベス1世(Elizabeth I)に金銀財宝を献上しました。この額は30万ポンドを越え、当時のイングランドの国庫歳入よりも多かったと言われています。この功績により、イギリス海軍の中将に任命されると同時に叙勲(サーの称号)を受けています。
  1581年にはプリマスの市長に選ばれています。しかし、スペインとの国交悪化から再び海に戻り、スペイン領への攻撃を率いました。1587年、カディス湾でスペイン艦隊を襲撃。1588年のアルマダ海戦ではイギリス艦隊副司令官に叙任され、イングランド艦隊の実質的な指揮をとり、火のついた船を敵艦隊に送り込むという海賊らしい戦法により、スペイン艦隊を壊滅させました。
  写真は、ゴールデン・ハインド(Golden Hind)を後方から撮影しています。船尾に船名の由来となった出資者クリストファー・ハットン卿の紋章「金の雌鹿」がご覧いただけると思います。
基本情報
      地図:ゴールデン・ハインド <Google Mapで表示>
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