1381年のワット・タイラーの乱、1450年のジャック・ケイド(ジョン・モーティマー)による反乱の際に、ロンドン橋(London Bridge)での攻防戦でいくつかのアーチは崩れ、橋上の住宅も焼き払われました。この橋の南側の水門小屋は数々のさらし首がおこなわれ、悪名高い場所の一つにもなっていたそうです。あるドイツ人旅行者が1598年に数えた際、30以上もの首がロンドン橋(London Bridge)にさらされていたそうです。この慣行は1660年、チャールズ2世による王政復古の際に廃止されました。
ロンドン橋(London Bridge)の上に住宅や商店が建築されたことにより、何度も火災が発生したそうです。1212年か1213年には、橋の両端から同時に火災が発生し、3000人が亡くなったそうです。1633年にも別の大火が起こり橋の北側3割を破壊されました。皮肉にも、このことが1666年のロンドン大火での橋の損傷を防ぐことになりました。1722年までに交通混雑が非常に激しくなり市長が「サザークからシティへ向かうすべての馬車類はこの橋の西側を通行し、シティから出て行く交通は東側を通行するように」との布告を出したそうです。1758年から1762年にかけて中心の2つのアーチがより広い梁間のものに交換され、それとともに家々も除去されたそうです。
写真は、現在のロンドン橋(London Bridge)の橋脚です。橋脚にもしっかりと名前が明記してあります。
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